暖を取らせてもらおうと足を踏み入れた古びた書店で

celame2007-02-06

日に焼けた紙の匂いがする
物書きには甘く脳の芯を痺れさせるまたたびみたいなものだ
人を探しながら導かれるように奥へ歩いていく
そこらじゅうに積もった埃
絵に描いたような書庫
起こさないでくれとでも言うように舞い上がる埃
足跡がくっきりと床に残る
上質なシルクの上を羽が滑っていく
紙の上を走る筆
黄金色の電球の元に指揮者のように筆を鳴らす彼
高い本棚は何処までも連なっている
深く遠く光の届ききらない本の楽園



「これ全部きみが書いたのかい?」
「うん」
「ここでずっと?」
「うん 外の世界より面白いよ」
「ちょっと読んでみても良い?」
「いいよ 好きなだけ」



彼の書いた本はどれも面白かった
どこか懐かしくて胸の奥に訴えてくるものがある



気が付くと窓の外にはまんまるいお月様が覗いていた



「もうこんな時間か」
「夢中になってたみたいだね」
「うん こんなに面白い本は読んだ事がないよ」
「そんなに褒められると嬉しいな」
「どうやってこんな本が書けるんだい?」
「どうやったら? うーん それは秘密だよ」
「そっか残念だな」
「それはコックにソースの作り方を聞くようなものだよ」
「はは 確かに」



互いに小さく笑いあう



それからは暇があれば足を運んだ
路地裏で誰も知らない綺麗な花を見つけたような気分だった
そこから色彩豊かに染まっていく情景
静か過ぎる湖の水面に一粒の雫が落ちて波紋を拡げて行った



もうほとんどの勝手がわかるくらいになっていた
扉の鍵や暗証番号に本の整え方
戸締りに点き難いランプの点け方



「もう自分の部屋より詳しいかもしれない」
「よく来るからね そんなにやることもココにはないし」
「そうなんだよ 不思議だよね」
「不思議?」
「こんな狭い場所に無限にも近い本がある」
「それは書いてる人を褒めてるのかな?」
「うん 本の中に想像もつかない広い世界が広がってる」
「読み尽くすには人生が足りない位」
「うん きみが書き続けるなら」
「楽しんでくれる人がいるなら」
「ずっとここで暮らしたい位だ」
「僕と変わってみる? 勝手はわかってるでしょ?」
「でも僕にはこんなに面白い話を書くことはできない」
「もしその力を与える事が僕にできるとしたら?」
「本当に?」
「ただ大切な秘密だからね 一回しかチャンスは上げられない」



僕は悩む
多分これは取引だ
もちろん喉から手が出るほど欲しい能力だ
こんなにも筆舌にし難い世界を創造できるなら
何を差し出したって良いと思う
僕には大して誰かに上げられるようなモノなど無いのだから
ならば彼は僕の何が欲しいのか
僕に与えられる能力と引き換えに何を持っていくのか
ごくっと喉が鳴ってしまった
首筋に汗が一筋落ちる



「僕は何を渡せばいいんだ?」



彼は不思議そうに首を傾げる



「渡す? 僕が何か欲しいと言ったかい?」
「言ってない」
「これは取引じゃないんだ」
「じゃあ・・・?」
「欲しいなら上げるし 欲しくないなら上げないし」
「それだけ?」
「それだけ」



これは罠だ こんな話あるわけがない 脳の奥がチリチリと痛む 何が良くて何が悪いのか 何を選べばよいのか 目頭にバチバチと光が明滅する 僕はなぜココにいるのか そもそもここは何処なのか 今は一体何時なんだ 昨日の夜の月は何色だったのか 体中の分子がデタラメにぶつかり合う 今朝見た猫の模様 いつからココに居るようになったのか 明滅はどんどん加速していく 昼と夜が混ざり合う チカチカする目の前の景色 太陽と月が一緒に空に浮かんでいる こめかみの辺りが痛み出す この痛み この自分の頭の中 この今の状態 汗ばむ左の掌 本を握り締めたままの右手 明滅と偏頭痛が同調する 助けてくれ ここから出してくれ 頼む 誰か 助けて



「交渉成立だね」



彼は差し出された僕の手を暖かく握っていた
その手はとても力強く頼もしくて
辺りは静かに埃達が深く眠っている
心臓の鼓動が部屋全体に響くくらいに聴こえている
少しずつ周りの静かな景色と馴染んでいく



彼は静かに出て行ったようだ
僕には彼を気に掛ける余裕なんてなくなっていた
今までに無い感覚に圧倒されていたからだ
次々にアイデアが浮かび上がる
深海に沈んだ宝石や金銀の財宝が勝手に海面に浮かんでくる
自分にはこんなにも書けることがあったなんて
なぜ今まで気が付かなかったのだろう
今ならこの脳に直結された筆からなんでも産み出せる
他の誰かとのなんらかや自分の欲しいものなんてもうない
溢れ続ける力を浴びて生きていける
才能とはこういうモノなのか
驕りや妬みという天才と普通の人の間にある溝
こういうものは普通の人達が作ったものなんだ
自分の才能に自分の体を委ねていたい
天地を創造した神々もこんな気持ちだったのかもしれない



このままずっとずっとずっとずっとこのままずっとずっとずっとこのままずっとずっとずっとずっとこのままずっとずっとずっとずっとこのままずっとずっともっとずっとずっとこのままこのままもっとずっとずっとずっとずっとこのままずっとずっともっとずっとずっとずっとずっとずっとずっともっと



「あーあ こんなになっちゃって」
頭に圧し掛かる感覚で目が覚める
「ショートしちゃってるなぁ 大丈夫かい」
返事をしようにも喉の奥がカラカラで声がでない
辛うじてひゅぅっという音を搾り出す
「ここはな 君の全てを記憶している書庫なんだよ」
なんだ何を言っている
「いくらでも書くことが沸いてきたのは体が行動した事を全て記録しなきゃならないからだ」



僕はまだ書ける書いても書いても書いてるし書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いてもいくら書いても書いても書いても書いても書いても書いても書いても書き足りない書いても書いても書いても書いても書いても書いてもまだ書けるんだ



「これは全部夢だ」
「目が覚めれば全て忘れる」
「数日間の記憶が無いと思うけど別に脳に異常はないから安心して」
「日常に戻るのにも多少時間が掛かるだろうけど」
「一時的に燃え尽きているだけだから」
「心も頭も体も」



頼む書かせてくれもっと



もっ と


書か    せて  く   れ